2006年04月16日
戦国島津ゆかりの地めぐりの旅〜宮崎・佐土原・高城編〜
【初日】自宅→都城領主館跡(車窓)→母智丘公園(2kmの桜並木・車窓)→関之尾滝・関之尾公園→カナダ(金田)経由→ホテルに嫁を投入→谷村計介生誕地、旧宅跡、大森公園(大森城跡)、谷村計介銅像・倉岡神社(糸原)→道の駅高岡→ 綾城(伊東氏ゆかりの城)・馬事公苑(車窓)→国富町経由→都於郡城跡(伊東氏居城、伊東満所生誕地、満所銅像、伝説 高江山上) →ホテル
【綾城】
綾城の天守閣が見えました。伊東氏の城で、一時島津家の支配下にある時期もありました。現在は伊東家ゆかりの品々を展示しているようです。右は綾城の上にある馬事公苑の桜並木です。シバザクラのピンクがまぶしかったです。
【都於郡城跡】
伊東氏の居城でした。木崎原の戦い後も5年ほどは伊東氏のものだったそうです。
空堀や土塁が現在でも良い状態で残されています。
↑本丸には伊東マンショの銅像が建っていました。大友方に落ち延びたあと、天正遣欧少年指節で留学をしています。
本丸の一角にオブジェらしきものを発見しました。夕日をバックにしてみると伊東氏が大友氏のもとへ落ちていく姿と重なりました。作品名「敗軍の将、兵を語らず」と勝手に命名。
この案内板を見ると、なかなかここも攻めるに難く、守るに易しな城だったことが想像されます。
【2日目】ホテル→宮崎カトリック教会(西郷)→宮崎総合文化公園(小村寿太郎、石井十次、若山牧水、高木兼寛、安井息軒、川越進)→佐土原城入城(鶴松館) →天昌寺跡(島津家久・豊久墓)→石井十次墓地(スルー)→木城町城山公園(高城跡) →おまる川→石井十次生誕地(スルー)→高鍋経由→空港→自宅
移動中、かわいい反射板を見かけました。西都原が古墳があるということでなんでしょうか。。。
ハニワ風の反射板が斬新で信号待ちで、思わずシャッターを切りました。
【佐土原城跡:鶴松館】
佐土原島津家の居城でした。島津家久、豊久もここに住んでいたのかwと感慨深いものがありました。高城川の戦いでは家久がここを拠点にしていたそうです。
また、時代はずっと下って島津啓次郎が使用していたフロックコートなども展示されていました。西南戦争のときの佐土原隊幹部です。
【天昌寺跡】
豊臣秀吉による九州征伐で降伏直後に急死した家久、関ヶ原の戦いの島津の退き口にて叔父である島津義弘を逃がすために殿軍をつとめ、7回槍で突かれて壮絶な戦死をした島津豊久の墓があります。また、西側の17基の墓群の中には関ヶ原で殉死した人たち3人の墓も並んでいます。
この大きな4基の墓は左から、家久、豊久、家久婦人、家久母堂が並んでいます。
豊久には子供がいなかったので城は引渡しとなってしまいました。そのため、この天昌寺を残し、豊久の遺臣一同涙を呑んで鹿児島県吹上町の永吉に引き上げました。
【高城跡】
高城は二度の大軍の攻撃にも耐えた、山田有栄守る難攻不落の城でした。一度目は5万の伊東・大友連合軍による攻撃、二度目は羽柴秀長による攻撃にも耐えたといいます。
新納観音というものです。高城川合戦での戦死者はいまだに供養されていない無縁仏が多数いるらしく、供養するために建てられたそうです。
現在天守閣のように見えるものは、時計台だそうです。桜が茂っていますが、狭いところにたくさん植わってあるんので時計台は良く見えません。
↑標高60mなのに、井戸跡がありました。
下から見上げた高城跡です。下からでは大した高さはないように見えますが、近づいてみると急な傾斜があり攻め難い構造になっているのがわかります。上からみると敵方の動きは手にとるように見え、守るに易い城だったようです。
【小丸川】
高城を囲む川のひとつです。天然の要害だったんですねw。小丸川(おまる川)と切原川に囲まれているそうです。
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